王華総領事 三条市諸橋轍次記念館講演全文掲載
2011/09/21

尊敬する衆議院議員、民主党政調会副会長菊田真紀子様、

尊敬する国定勇人市長、

尊敬する新潟県議員坂田光子様、

尊敬する太向義明館長と佐藤海山会長様、

在席の皆様:

 こんにちは!本日は「諸橋轍次博士と一族遺墨展(いぼくてん)」後期展の開幕式にお招きいただき、皆様と一堂に会しまして、わたくしと日本の偉大な漢学者・諸橋轍次先生が一生涯をかけて編纂した「大漢和辞典」との出会いを振り返り、中日文化交流について、私の浅識をもって皆様と交流ができることを、誠に光栄なことと存じます。この場をお借りしまして、今年三月の東日本大震災また夏の豪雨の際被害にあわれた皆様に、心よりお見舞い申し上げます。

 振り返ってみますと、「大漢和辞典」とわたくしの出会いは二十年ほど前に遡ります。当時大学生だったわたくしは、先輩から聞いていた、十三巻にも及ぶ日本の大漢和辞典というものをどうしても見てみたいと思い、大学の図書館にあった辞典の扉を開けました。こうして諸橋先生の大漢和辞典との解けないご縁が結ばれたのです。一般の辞典よりも、「大漢和辞典」には権威があり非常に網羅的です。「大漢和辞典」は中国の「康煕字典(こうきじてん)」や「佩文韵府(はいぶんいんぷ)」などの古書に基づき、日本語で、中国の漢字と語彙及び中国数千年の文化の様々な事象を解釈して、内容は森羅万象、日本語で書かれた中国語辞典のトップであるといっても過言ではありません。私自身が日本語を勉強するときに、時々古い漢字や語彙の翻訳に悩み、普通の辞書ではなかなか調べられない場合は、幾度も「大漢和辞典」に助けを求めました。わたくしの日本語の勉強は、「大漢和辞典」によって、中国語から日本語への正しい翻訳方法を学ぶと同時に、周辺の知識も増え、大いに支えられました。

 「大漢和辞典」を引いているうちに、このようにすばらしい辞典を編纂したのはどんな方なのだろうと、深い興味を持つようになりました。辞典の序言や他の資料を読んで「大漢和辞典」編纂時の苦難の過程を知り、そしてまた日本の文化界の偉大な人物である諸橋轍次先生と出会ったのです。

 中日文化交流の先駆者として、両国文化交流に多大な貢献をされ、漢学者として活躍された諸橋先生は、朝日新聞社より朝日賞、日本政府より文化勲章、勲一等(くんいっとう)瑞宝(ずいほう)章を受章され、両国の文化界において大変尊敬されています。

 諸橋先生というと、漢学について言及しなければなりません。日本の漢学の歴史は長く、日本の歴史書「古事記」によると、和邇吉師(わにきし)すなわち王仁(わに)が西暦五世紀前半「論語」と「千字文(せんじもん)」を最初に日本に伝え、日本で漢学が広まりました。日本での漢学の発展は、平安時代以前の翰林(かんりん)時期、鎌倉・室町時代の叢林(そうりん)時期、及び江戸時代の儒林(じゅりん)時期と明治時代の士林(しりん)時期と区分されます。また空海という人物が現れたり、「懐風藻(かいふうそう)」という漢詩集なども編まれたことは、特筆すべきことだと思います。

 明治時代以降、漢学に代わり洋学(蘭学)の発展が勢いを増しました。しかし、諸橋轍次先生をはじめとする多くの学者たちが、漢学の研究と発展に力を注ぎ、漢学を広めることに大きく貢献しました。諸橋轍次先生は漢学の研究に一生をささげ、中国文化界の康有為(こうゆうい)、蔡元培(さい げんばい)、胡適(こてき)、周作人(しゅう さくじん)、郭沫若(かく まつじゃく )などの学者たちとの友情も深く結んでおり、近代中日文化交流における先駆者と言えます。ですから諸橋轍次先生の著作は、明治時代の漢学の歴史としても読むことができます。また、その中に潜む中日文化交流の流れもたくさん見えてきますので、参考にしたり、研究する価値が十分にあると思います。また、諸橋先生の多大な功績により、三条市は現在、日本の「漢学の里」と呼ばれています。

 諸橋先生は「大漢和辞典」、「中国古典名言事典」など数多くの辞典を編纂し、著作は背の高さほどもあります。轍次先生が一生の心血を注いだ「大漢和辞典」は、日本語版の中国百科全書といえます。「大漢和辞典」は全十三巻、5万字に及ぶ漢字と、50万以上の語彙を収録して、翻訳、文化交流、日本での漢学の普及などに対し、大きく貢献されました。諸橋轍次先生の座右の銘は「行不由径(こうふゆけい)」“行くに径(こみち)によらず。”であるとお聞きしましたが、この「行不由径(こうふゆけい)」という言葉は、中国の古書「論語(ろんご)」の言葉ですが、諸橋轍次先生の一生からも、この言葉の真髄を読み取ることができます。「大漢和辞典」の序言を読み、辞典編纂における苦難の過程を知りました。諸橋先生は生涯のほとんどの時間を辞典の編纂に尽くしました。一九四五年、東京大空襲により辞典印刷用の版や校正原稿の十巻が焼かれるという大変苦しい状況に直面したことについて先生は、「半生(はんせい)の志業(しぎょう)はあへなく①も茲(ここ)に烏有(うゆう)に帰したわけである」と、また、「祖国が既にかかる一大変故(へんこ)に遭遇したのであるから、一箇(いっか)の私の事業などはいかなる運命になっても仕方がないと一時は諦めたが、その後、時の経つにつれてまた別の考へが起こって来た。それは著者としての責任感である。」と記しました。先生は両眼をほとんど失明しても、朱筆(しゅひつ)を持って校正したと聞きます。「大漢和辞典」を出版する昭和三十年十一月三日、先生はすでに78歳の高齢でありましたが、序言の最後に「これこそ東洋文化宣揚のため学界の一大慶事であると思う、私は切にそのことを希望して已(や)まない」と書き記しており、その言葉からは先生の大きな喜びを感じることができます。

 また、そのほかにも、私は様々な資料から、「大漢和辞典」に貢献された大修館(たいしゅうかん)の創業者である鈴木一平(いっぺい)氏、上智大学土橋八千太(つちはし やちた)校長、写植(しゃしょく)原字(げんじ)の作成を担当した石井茂吉(いしいもきち)氏など、先輩方の功績を知りました。彼らは諸橋先生と共に、大漢和辞典編纂に力を尽くしたために、疲労が重なり病気になった方もいたとのことですが、彼らのおかげで、今日も、「大漢和辞典」が中日両国の辞典のトップの座にあり、彼らの名前も「大漢和辞典」と共に輝き、歴史に刻みこまれています。先生方はこの大辞典編纂事業に生涯をかけて、「行不由径(こうふゆけい)」の本当の意味を理解しようとしたのです。すなわち、学問に抜け道はなく、着実に進めていかなければなりません。私は、日本語を勉強する際には「大漢和辞典」から強い影響を受けましたし、また諸橋先生が辞典の編纂に心血を注いだということも私の励みとなり、これまで中日友好事業に身を投じてまいりました。日本関係の仕事に従事したこの二十年間、翻訳に悩んだときには図書館で「大漢和辞典」を調べ参考にしたこともたくさんあります。仕事に疲れたときは、諸橋先生の姿が目に浮かび、元気をいただきながら、中日友好事業に貢献しようという志を強く固めたものです。

 光陰矢の如し、私も四十代を迎え、昨年、中国の外交部より駐新潟総領事に任命された時、すぐに頭に浮かんできたのは諸橋轍次先生のお名前です。そのときから、下田村(しただむら)の山紫水明(さんしすいめい)を、編纂者の精神と智恵を集めた「遠人村舎(えんじんそんしゃ)」②を訪れたいと思いながら、新潟に赴任して参りました。昨年の11月、佐藤前館長のお招きで、徹次先生の記念漢詩大会に出席させていただきまして、選手に「総領事館賞」を授与し、皆様と一緒に翠松苑(すいしょうえん)で曲水流觴(りゅうしょう)にも参加して、中日文化の魅力を共に体験しました。皆さんは轍次先生の遺志を継いで、毎年このような大きな行事を行っていることや、中学生、大学生たちが中国語で漢詩を作ることに、本当に感心いたしました。また、記念館内で、轍次先生と中国との深い縁に関する展示を拝見しましたが、こちらに展示されているものは、いわば近代中国と日本の言語、文化交流の縮図であるとわたくしは思います。この場をお借りしまして、太向館長をはじめ、ご在席の皆様がこれまで中日文化交流に貢献されてきたことに心から感謝を申し上げます。

 中日両国の文化交流の悠久なる歴史は二千年以上に及んでいますが、これは世界の歴史においても一つの奇跡と言ってもよいのではないでしょうか。秦と漢の時代に、稲作(いなさく)、桑植(くわうえ)、養蚕(ようさん)、紡績、製錬などの生産技術が相次いで中国から日本に伝来し、漢字、儒学、仏教、律令制度及び芸術なども日本に伝わりました。日本は10数回にわたって遣唐使を派遣しました。阿倍仲麻呂もその中の一人です。阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)は中国で数十年間暮らし、唐王朝の要職につき、王維、李白など著名な詩人たちと親交を深めました。鑑真和上は日本への渡航に5回も失敗した末、両眼を失明しました。それでも、鑑真和上は志を変えることはありませんでした。6回目についに渡航を成し遂げたときにはすでに66歳の高齢となっていました。鑑真和上は衆生済度(しゅじょうさいど)の仏法を日本に伝えるという長年の宿願を果たすために、通算12年間もの歳月を費やしました。鑑真和上は中日両国人民の友好のために自らのすべてをささげたのです。

 近代以降も、文化交流は終始両国関係の中でも活発的な部分であります。昨年12月、河野洋平前衆院議長は中国文化祭の開幕式において、「日本文化の伝統に中国文化の薫りが漂っていることは、日中の間に切っても切れない縁があることの表れである」とおっしゃいました。わたくしが申し上げたいのは、中国の文化が日本に伝わって、日本の先人たちが日本の伝統文化を保ちつつも新たに創造を加え、大いに発展させました。そして、明治維新以降、日本の経済社会が急速に発展を遂げた際に、中国から多くの青年が来日し、近代的な科学技術と民主的な思想を学び、中華民族の振興の道を模索し、中国の発展と進歩を促進しました。周恩来先生、魯迅先生、郭沫若(かくまつじゃく )先生等の先達も日本で留学生活を送り、日本の国民と深い友情を結びました。

 新中国の設立後は、日中両国はまだ国交正常化がなされておらず、両国関係が一番難しい時期にありました。両国の多くの文化人と有識者らが困難を恐れず、中日友好の重要性を叫び続けてきました。彼らはさまざまの障害を打ち破って、1950年代にいくつかの日中友好団体を作り、それを中心にして交流活動を展開してきました。国交正常化30数年来、中日文化交流は迅速な発展を遂げ、両国人民の感情の重要な絆となりました。中日両国の友好往来は、その時間の長さ、規模の大きさと影響力の強さからも、世界文明の発展の歴史に類(たぐい)を見ないものであると言えましょう。これはわれわれが共有している歴史の伝統と文明の財産であり、これからもより一層大切にし、子々孫々にわたり、大いに発揚するに値するものであります。

 去年6月に中国駐新潟総領事館が設立して以来、中国国内の有名な文化人、芸術団体を新潟に招待する活動などを通じて、新潟及び総領事館業務エリア3県と中国との文化交流を積極的に推進してまいりました。今年3月、中日両国は東京で中日文化交流協会設立55周年記念のパネル展を共催いたしました。そこで新潟でもこの展示をみなさんに見ていただきたいという思いから、東京の中国文化センター、日中文化交流協会と中国駐新潟総領事館は共同で8月23日~9月1日の10日間、新潟市民芸術文化会館でこのパネル展を再度催すこととなりました。この展示では、写真と言葉で中日文化交流のおよそ55年間にわたる歴史を振り返り、中日文化交流のために貢献した両国の文化界の先人たちを追想しました。

 来年は中日国交正常化40周年にあたり、中日関係にとって重大な歴史的意味を持つ年であります。これに際して、われわれは中日の文化的友好交流のために巨大な貢献をなされた諸橋轍次先生をはじめとする大先輩たちを追想したいと思います。周知のように、新潟は中日国交正常化のために大きく貢献をされた日本の元首相・田中角栄先生の郷里であります。中国駐新潟総領事館は、県や市と、そして各界の友人らと共にこの記念行事の準備を積極的に進め、皆さんの中日両国の友好的な歴史に対する理解を深めていけたらと思っております。文化交流は、その中でも重要な構成部分であります。われわれは、諸橋轍次先生をはじめとする両国における文化交流の先駆者たちを記念して、展示会、シンポジウムなどを企画しようと考えております。ぜひご出席の皆様と諸橋記念館の皆様からの大きなご支持とご協力をいただきたいと考えております。

 ご在席の皆様、中国と日本、また両国関係が絶えず発展する新しいこの時代において、両国の文化交流は日益に頻繁かつ緊密なものとなってきております。互いの共同の努力を通して、諸橋轍次先生の遺志を受け継ぎ、絶えず漢学の文化を発揚して、中日両国の文化交流は必ずや将来の発展の道を切り開き、新しい歴史の一ページを切り開いていくことと私は強く信じております。

 ご清聴ありがとうございました!